
初めまして、丸山貴生です。
この記事では、まだ私のことをよく知らないという方に向けて、自己紹介をしていきます。
そして、それに付随して、
私が何を考え、何を思いながら生きているのか、そんな私の価値観や世界観もあなたに共有したいと思います。
この記事を見て、少しでも私のことを知っていただけたら嬉しく思います。
長くなりますが、どうぞお付き合いください。
※ものすごく長いので、途中途中、気になったテーマだけ読んでいただければ大丈夫です。
はじめに

私は、公認会計士、税理士という国家資格を持つ、会計・税務のプロフェッショナルとして、名だたる上場企業や新興企業、スタートアップ期のクライアント様の会計監査、会計・税務顧問業務に携わってきました。
その甲斐もあって、2017年7月に、本業繋がりでインフラ・ファンドという特殊な法人の役員のオファーまでいただき、翌年の2018年9月には東京証券取引所にも上場することができ、現在も上場投資ファンドの非常勤役員として関わらせていただいています。

その一方で、サラリーマン、OL、主婦、パートタイマーのシングルマザーや、フリーランスなど、あらゆる方々に対して、全くのビジネス初心者でも3ヶ月から6ヶ月で本業に匹敵する収入を得る『複業』を構築するための完全個別サポートをさせていただいています。

おかげさまで、私自身も、複業実現コンサルタントとして、本業に匹敵する『複業』を構築することができています。
私には息子と娘がいますが、息子は昨年無事中学受験に合格し、私立中学2年生、そして娘も現在受験真っただ中の小学6年生と、教育費もバカになりませんが、お金の心配もなく、子供たちに精一杯、やりたいことに挑戦してもらえる環境を用意してあげられています。
そしてこれからも、どんな困難な道でも、本人が本気で望むのであれば、それを叶えてあげたいと思っていますし、それをあらゆる面から支えられる親であり続けたいと心の底から願っています。
しかし、そんな私も最初から順風満帆だったわけではありません。年収を300万円減らしてでも挑んだ初の転職は大失敗に終わり、その後始めた副業の不動産投資でも大失敗。その後、詐欺にも遭い、銀行残高はみるみる減っていきました。普通の転職すら恐怖に感じる超保守的な妻に無用なストレスを与え、一時は離婚まで頭をよぎることもありました。
ここではそんな私がここにたどり着くまでの失敗と苦悩の日々を赤裸々にお伝えしようと思います。
私が副業を始めようとしたワケ

丸山さんは公認会計士で税理士、しかも業界最大手の監査法人出身という素晴らしい資格や経歴をお持ちなのに、なぜ副業なんてやっているんですか?
そんなことやらなくても十分贅沢に暮らしていけるんじゃないんですか?
私が副業をやっていると、そんな質問をされる方が結構な確率でいます。
でも…それは半分正解で半分間違っています。
ハッキリ言って本業の給料だけでは全然贅沢なんて出来ません!私のお小遣いを聞いたらきっとビックリするかもしれませんが…
月3万円です。
(複業からの収入は除く)
素晴らしい経歴・資格をお持ちで、年収だって世間一般のサラリーマンの平均年収の倍以上はもらっているはずの丸山さんのお小遣いは月にたった3万円なんです。
職場の飲みに行けば、管理職なので当然、それなりに負担はします。特に個別に後輩と飲みに行けば当然のようにおごったりもします。プライベートの飲みなんかも入れたら、どこにも遊びに行けるお金なんてありません。毎月給料日前になると金欠になるので、行きたい飲み会でも断っていました。
でもそれが丸山家で出せる精一杯のお金だったんです。
確かに、本業でもそれなりに給料はいただいており、子供2人の4人家族で、横浜近辺のタワーマンションに住み、息子は私立中学、娘は中学受験のために塾通いと、一見、理想の暮らしにも思えるかもしれません。

かくいう私自身も、マンションを買って住み始めたころは、子供もまだ小さく、年に一回の大型連休を利用して、毎年、海外旅行なんて時期もあったので、「これが幸せってやつなんだな~」なんて心の底から思っていました。
でも、子供が大きくなるにつれ、習い事や学費の負担が重くのしかかります。
子供へ使うお金が増えるごとに家族の遊びや体験のために使っていたお金が削られていく。そして給料が増えた分、仕事関係で使うお金も確実に増え、社交費として消えていく。
妻も私も浪費にお金を使う性格ではありません。
そんなお金があるなら子供たちの将来のために少しでも良い教育を…
そんな思いもあって、子供2人にかかる塾代・習い事代は10万円を超える月もザラでした。
年収1,000万円って、憧れられますけど、社会保険料やら所得税・住民税やら色々さっぴかれると、手元に残るお金って、実は750万円くらいなんですよね。
ボーナスなんかは大きく使う予定がない時なんて住宅ローンの繰上返済にほとんど充てていたので、あまり手元には残らず、月の給料頼み。で、手取りはせいぜい40万円~50万円程度。そこから子供の教育費、住宅ローン、生活費諸々考えると、本当に手元に残るお金は僅かです(おかげさまで住宅ローン残高は1,000万円もないくらいですが)。
妻は子供の送り迎えに車が欲しいと常々言っていましたが、私は「車は贅沢品だ」といって、決してOKしませんでした(これで何度ケンカになったことか…)。
そんな我慢の暮らしが何年か続きました。
(ま、車はいまでも全然欲しいと思わないので買っていませんが…)
妻はそれでも、着実に減っていく住宅ローン、そして僅かながらでも積み上がっていく銀行預金を見て、安心していたみたいでした。
しかし、度重なる監査法人でのリストラで、優しかった先輩が去っていくのを目の当たりにし、そして、これからの激動の時代を予見できていた私は、むしろ心配で心配で仕方ありませんでした。
それでも現状で満足できていたら、きっとそんな不安よりも、転職する不安の方が大きくて動けなかったんだと思います。
でも私は躊躇(ちゅうちょ)なく転職を決意しました。
妻の反対を押し切って…
その後、2度の転職によって仕事人としての自信はつきました。
年収スライドくらいであれば、転職先だって正直困らないくらいです。
でも、やっぱりサラリーマンはサラリーマンなんです。
このままでは、自分が疲弊するばかりで暮らしぶりは変わらない!もっと自分の自由な働き方で劇的に人生を変えたい!
そんな思いが私を副業に突き動かしました。
なぜそんな決断ができたのかというと、それには、私の生い立ちやそれまでの過ごし方、職場での数々の出来事が大きく関わっているような気がします。全てはお伝え出来ませんが、かいつまんでお伝えします。
いじめにあった幼少期
私は新潟県新潟市の中心街で産声を上げました(表現が古いのはご容赦ください)。
しかし、父の仕事柄、毎年のように転勤があり、私は小学校6年間で4回も引っ越しを経験しました。おかげでお別れの鉛筆やらノートやらで文房具に困ることはなかったです(笑)
それが原因なのか、郷に入っては郷に従えの言葉どおり、自分ではどうにもならない環境(引っ越し)にあらがうことなく、自分のやれること(友達作り、勉強)を当たり前のように取り組む、そんな少年でした。
ところが、今も在住している神奈川県横浜市に来て3年目に、いじめにあいました。転校生なのに、勉強はできる方だし、まじめで先生受けもよかった。それが目を付けられた原因です。
酷い時は、3・4人に囲まれて蹴られたり殴られたり。囲まれているので誰にもバレません…
最後は下校中にみぞおちに蹴りを入れられて、苦しんでいるところを友人のおじいさんが見つけて学校に通報していただき、発覚しました。
期間は数ヶ月と短かったですが、あの記憶は幼いながらも心に強く刻まれました。
私は感情の起伏が小さいといわれることが多いのですが、きっとこの時の体験が元で感情を表に出さない人間になってしまったのかなと、今さらながら思います。
公認会計士との出会いと合格まで
中学・高校は野球一筋でしたので、そんなことも忘れるくらいでした。
弱小校ではありましたが、本気でプロを目指していた時もありました。
しかし、ケガや病気なども重なり、高校で諦めました。
進学校だったので高校はずっと落ちこぼれでしたが、大学も何とか現役で受かり、さあこれからどんな大学生活を送ろうかと考えていた時に、私は公認会計士という資格を知りました。
きっかけはホントに些細な事。入学時の案内の中にパンフレットがあったから。公認会計士という仕事がどんなものかもわかっていませんでしたが、商学部に入るからには一つくらい会計の資格取ろうかってくらいの気持ちでした(学校内の塾だったので通常の予備校より断然安かったのもありました)。
まさか、この後、全然受からなくて足掛け6年もかけて勉強するとは、この当時思ってもいませんでした。
結局フラフラ遊びながら続けていたので、受かったのは大学をとっくに卒業してから。途中、就職するかも悩みましたが、「普通のサラリーマン」になるのは嫌だ!って感情が勝り、なんとかかんとか25歳で合格することができました。
就職先でのブラック体験、そして挫折…
無事、公認会計士試験合格を果たし、決めた就職先は世界でも4大ファームの一つといわれる、デロイトグループの有限責任監査法人トーマツ(当時は監査法人トーマツ)。
ここから自分の華やかな会計士人生がスタートする!
しかし、そんな期待はあっさりと打ち砕かれました…
社会人一年目というのは生まれたてのひよこみたいなものです。
入った最初の職場で自分のビジネスマンとしての価値観が決まるとはよく言われますが、私の最初の職場は散々でした。
入って早々、いきなりの終電ラッシュ!
帰るときのセリフはいつも「すみません、電車がなくなるのでこれで失礼します」。
パワハラ上司。
僅か1、2週間で怒鳴られた回数は数知れず…
終電なら毎日6時間残業ですが、3時間くらいはサービス残業。
休日出勤はもはや何日したかもう覚えていません…
毎日深夜1時すぎに帰宅。その後、ご飯・お風呂で2時すぎ就寝・6時半起床。
休日も土日どちらかまたは両方とも出勤。
この社会人一年目でのいきなりの連日ハードワークによる肉体攻撃と、心に響く「ありがたい」言葉の精神攻撃ですっかり体調を崩してしまい、朝ご飯を食べた後、毎日吐き続けるという体験を1ヶ月味わいました。
お腹も壊したりしていたので、運動もしないで1ヶ月で5キロ痩せました。
こんな壮絶なダイエットはもう二度としたくないですね。
GWも当然全部仕事(当時は勝手にグレーウィークって周りに言ってました…)でしたが、休日出勤の行きの電車の中で「今この電車が事故ってくれたら死んで楽になれるんだろうな~」なんて本気で考えて、今思うとホントにうつ病の一歩手前だったんだと思います。
それでも、途中部署異動もあったものの、なんだかんだで10年半この職場にいました。徹夜で朝帰り、なんていうのは結構当たり前。年に10日以上はあったと思います。
一番酷かったのは、クライアント先の監査部屋で金曜日の朝から日曜日の昼間まで籠もりっきりという、人生初の2徹(2日連続の徹夜)も経験しました。厳密にはちょっとだけ仮眠取りましたが、それでも50数時間の勤務時間中、睡眠はわずか数十分くらいでした…
おかげで根性だけは学生時代の部活以上に相当鍛えられました。その後の職場でも辛い思いはたくさんありましたが、あれ以上はないと思うことでなんでも耐えられました。
それでもサラリーマンに失望した出来事には精神的にこたえました。2徹したあの時「丸ちゃんが今期のMVPだな!」って当時の責任者に褒めてもらったのですが、何と評価は最下層…あのセリフは何だったの?って力が抜けました…
ちょうど他のクライアントでも私の職業的専門家としての在り方を大きく揺るがすようなショッキングな出来事があり、それもあって急速に仕事に対する情熱が失せていくのを感じました。
その時、これを割り切れるのがサラリーマンか~
なんて限界を感じてしまったんだと思います。
仕事以外の生きがいを求めて
その後、私は縁あって別のプロジェクトに参加させていただき、その流れで部署異動しました。
仕事はもちろんまじめにやっていましたし、決して手を抜くこともしませんでした。しかし、上記のような出来事もあり、心のどこかでは少し冷め気味だったのは間違いなかったと思います。
一方で、ちょうど子供も可愛い盛りで、時間的にも異動してからは徹夜なんてなくなりましたし、ちょくちょく海外旅行なんかにも行くようになっていました。
だから仕事のことは抜きにして、この頃は、「これが幸せってやつなんだな~」なんて浸っていた時期でもありました。
しかし、その「幸せ」という感覚もすぐに消え失せます。
それが職場での「リストラ」です。
信じられないかもしれませんが、公認会計士でもクビ切りが行われていたんです!
この職場に違和感と諦めを感じていた私は、喜び勇んでこの制度に応募しようとしました!が、名乗り出てから2ヶ月後には退職しないといけないこと、同じようなキャリアの人が市場に大量に溢れることから、転職リスクを心配した妻に猛反対を食らいました。
とはいえ、実際に去っていく先輩たちを見て感じたのは、
明日は我が身…
といった心境でした。
一念発起の転職、しかし・・・
決してこの時やっている仕事が不満だったとか、環境が嫌だったとか、そんな気持ちはありませんでした。
でも、自分の中ではこんなコンプレックスがず~っとありました。
監査法人にいては自分が実務の経験を積むことができない。実務の経験がないのに偉そうなことは言えない。
もちろん気にせず偉そうにしている人はたくさんいます。割り切れるのがサラリーマンだというのもよくわかっています。でも、私としてはこのコンプレックスは何としても解消したかったんです。
それで事業会社の経理部門に転職しました。
おかげで自分のコンプレックスは一掃されました。
ただ、この職場には実は3年いませんでした。
またしても転職。
なぜか?
一言でいうと、経済的な理由からです。
実は、転職時にものすごい年収ダウンしてたんですね。
今でこそ会計業界は慢性的な人手不足で、年収スライドで雇ってもらえるなんてことも多いですが、当時はリストラ直後で状況はそれほど良くありませんでした。
でも、市況を待っての転職では遅いと思い、一念発起して転職しました。
妻の制止を振り切って年収1000万円から年収600万円代の基本給の職場への転職でした。妻には2年以内に年収を戻すという約束で強行。
しかし…
残念ながら入社時聞いていた状況(2年で課長になれる)と入ったときの状況(入社直前に同い年の人が課長に就任)が詐欺のように違っていたという残念な出来事も重なり、その約束を果たすことはできませんでした。
それでも馬車馬のように働き、同い年の課長から積極的に仕事をもらい限界ギリギリまで残業を申し出て、年収900万円までは何とか戻しました。
が…
健闘虚しく、残業規制は厳しくなり、残業代で稼ぐということは不可能になることが確実に。
また、ここでもサラリーマンの理不尽が。なんと上半期A評価だった査定が下半期でD評価となり、ボーナスは半減…
後から聞いた話では、同じ職位で上半期に最低評価を取った同僚がいて、同じ評価を2回取ったら降格になるというので、上半期に高評価だった人間を1人最低評価に落とすという、いわゆる「いけにえ人事」でした。
ボーナスも半減し、残業代も減る見込みの中で、年収は800万円へ逆戻り…もちろん、下半期の最低評価で昇進も先送り確実。ここでもサラリーマンの理論が私を苦しめます。
そして妻から出た言葉が私を否応なしに転職へと誘います。
「もう限界です…」と。
幸い、市況は以前よりも良くなっていたため、転職先を探すのにそれほど苦労はしませんでした。自信もキャリアも身に着いていたから、という点も大きかったと思います。
結局この時は3社から内定をいただき、迷った挙句選んだ先が今の職場です。
自己啓発、そして人生の目的探しへ

前職時に、とあることがきっかけで読書するようになり、たくさんの啓発本を読みました。どれも大切な肥やしになっているんですが、中でも一番私の心に響いたのは、上の写真にある、トニー野中さんの「3週間で人生を変える法」です。
これを読んで本気で自分の人生を変えようと思えました。
それはサラリーマンというものへの諦めと、自分の不甲斐なさと、それでいて、自分はもっとやれるはず、といった根拠のない自分への期待でした。
この本は3週間かけて毎日の宿題(ワーク)が与えられて、それをアウトプットするというものでしたが、ここまで真剣に、指示されたとおり完全にワークをやり切ったといえる本はこれまでにはありませんでした。
何はともあれ、このワークによって、自分が本当にやりたいこと、そして、逆算思考で何歳までに何をしていなければならないのかがわかってきました。
ここで得られた価値観、自分の仕事(本業も複業も)に対する考え方などは今も生きています。
そして副業へ
ここまで読んでいただいた方であればお分かりですが、「副業」なんて文字は全く出てきませんでしたよね?
そうなんです!
そんなこと全く考えたことのない人生でした。
そりゃ資金運用くらいの気持ちで投資信託くらいはやっていましたよ。
でも、それで生計を立てようとか、ましてや本業と同じくらい稼ごうなんて発想は全くなかったわけです。あるのは本業でどれだけ稼げるようになれるのか。
しかし、急に年収が2倍、3倍になるような転職はさすがにどこにもありません。あるとすれば、一度年収ダウンして、そこで上手くいって成功したら5年後にそんな年収になる、そんなところばかり。
でも、そんな転職は妻の性格からも、ましてや最初の転職で見事に期待を裏切っていることからも、許されるわけがありませんでした。
そこで、いつしか手っ取り早く脱サラできるような異次元の稼ぎ方をしたい、そんな気持ちにかられるようになりました。
先ほど紹介した自己啓発が変な方向で発動し始めてしまったわけです。それが副業に目覚めたきっかけでした。
結果の出ない副業、そして詐欺案件…
そうして始めたのが不動産投資。
何といっても不動産投資の魅力は社会的信用がフルに使える点。食いっぱぐれのない(と思われている)国家資格でもあり、融資はすんなり通りました。
というのは後から知った話で、実は不動産投資は即断即決。ほとんど予備知識もないままに、営業マンの進めるがまま、新築の一棟物アパートを購入してしまいました。しかし、買ったのはちょっとでも勉強していればやめていた、いわゆるお荷物物件でした。
この物件の購入に充てた元本、諸費用は合わせて400万円以上…
当面の家賃収入などはありましたし、詐欺とまでは言えない物件でしたが、いかんせんもっとも重要な担保価値が低すぎて、二棟目が買えない状態に陥りました。
それなら別の投資を。ということで手を出したのが、以前、ちょっとかじったFX。これなら本気で勉強すれば稼げるようになるはず、と、とあるキャンペーンに乗っかって、スクールに入塾するも、最初の面談以降、何も連絡が来なくなりました…
いわゆる詐欺案件てやつです。
そこで得た教訓は、「自分だけでやろうとすると失敗する」ということ。そして、「一攫千金を狙おうとすると失敗する」ということ。
自分のステージは、今は本業をしっかり足固めしながら自分の事業を作る段階だと再認識し、実業を学ぼうと思いました。
悩んだ末に選択したもの
自分に何ができるか?
これに対する答えはすぐ出ました。
元々自分がなりたいと思っていたもの、すなわちコンサルです。
監査人でもなく、経理マンでもなく、税理士でもなくコンサルタント。監査人のようにクライアントと敵対するでもなく、経理マンのように馬車馬になるわけでもなく、税理士のようにお客さんから下請け扱いされることもなく、お互いの幸せのためにWin-Winになれる関係、そんな関係を築けるコンサルタントになりたいと思いました。
本業をコンサルタントに出来ないかとも考えました。しかし、未経験扱いでなかなか現状の給与をキープするのは難しい。ましてや、雇われでは結局サラリーマンの域を出られません。
そこで考え付いたのが副業でコンサルタントでした。
オンラインのコンテンツにも入りました。
セミナーにだっていくつも参加します。
しかし…いったい何を商品にして売ればいいのか?
皆目見当がつかないまま半年が経ってしまいました。
その時です。私が今のコミュニティに入るきっかけとなったセミナーの募集を見たのは。最初のフレーズからして気になっていました。
「週末セミナー講師」
副業を前提とする表現です。そうか!副業からでもよいのか。更に私の心に響いたのが次のフレーズです。
「あなたのオリジナル商品はいりません!」
えっ?
コンサルタントなのに自分の商品がいらないってどういうこと?
これはまさに私の半年間の悩みを一瞬にして解決してしまう、恐るべき魔法の言葉でした。
その答えはセミナーに参加することでよくわかりました。こうして私は半年間の呪縛からようやく抜け出し、やると決意してこのコミュニティに参加しました。
初めはもちろん戸惑う事ばかりでした。サラリーマンの常識はビジネスの非常識とばかりに、社会人1年目のように何もかも学ぶことばかり。マインドセットも見た目も、そして自己投資も、これまでとは比較にならないくらい加速しました。
そして、今の自分の型となる、例え営業経験がない人でも、副業なんてやったことがないなんて人でも、本業をまじめにコツコツ頑張っている人にこそ結果の出せる副業法、そして副業のスキル・経験値を高めることで、本業もますます高めていける、そんなマインドセット、仕事というものに対する向き合い方、時間の使い方などを伝授する、『サバイバル複業術』に辿りつきました。
今では、サラリーマン・OLはもちろんのこと、
✅家事を一生懸命に頑張っていただいている主婦の方
✅別の収益の柱を作っていきたいと考える個人事業主
✅こちらを本業で、他の収入を上げていきたい
パート、アルバイトや派遣の方など
様々な方にも同じような結果を残していただけるようになりました。
このように対外的にも十分な成功を収めることができましたが、それと同じか、それ以上に嬉しいのが、コミュニティメンバーへの貢献ができることです。
今ではコミュニティ内でも「まるちゃん」の愛称で親しまれ、コミュニティメンバーへの貢献のために、私の得意な税金関係のレクチャーまで実施するようになっています。

私に限らず、それぞれがそれぞれの得意分野を積極的にシェアすることで、みんなで一緒に成長していこうという素晴らしいコミュニティです。
私もそんな仲間たちに囲まれて今も日々進化しています。
私の思い(2020年6月追記)
ここまでは、私の実体験に基づく本業、そして複業について赤裸々にお伝えしました。ここでは、私が得られたもの、そしてそれを得るために必要だった考え方についてお伝えします。
実はこれを書いている2020年6月限りで現職の税理士法人を退職し、7月より一般の事業会社に転職することになっています(売上100億円弱のいわゆるベンチャー企業)。
そこでは経理財務の責任者として、上場に向けた組織再編や管理体制の向上などを使命として、統括会社の役員に就任することも決まっています。
つまり、サラリーマンでありながらサラリーマンではない領域、経営者の仲間入りを果たします(トップではないけどね)。
これって私的には本業にとっての一つのゴールなんですよね。サラリーマンが成り上がってサラリーマンを卒業する。もちろん、ただ自分だけが卒業して、かつての自分と同じ人を生み出したら意味がないわけです。
私自身サラリーマンを卒業して、一緒に仕事をするサラリーマンには一個人事業主のように生き生きと自立して働いてほしい!そんな職場づくりをしたいと思っています。
こんなチャンス、そうそうないですよね?
だから私は迷わずそのチャンスに飛び込みました!
当然、安定志向の妻には嫌な顔されました(最後には認めてくれましたが)。妻のご両親からも、3回転職なんて考え方がおかしいとか、堪え性がないとか、思いがけない非難の言葉も浴びました。
それでも私は転職しました。なぜか?
それは私の人生は妻の人生ではなく、ましてや妻のご両親の人生でもなく、私自身の人生だからです。もちろん、どうでもいいわけではないので、この関係はしっかり回復したいと思っています。
サラリーマンマインドの人たちに何を言われても目指すところが違うので、残念ながら寄り添うことはできても賛同はできません。
きっとわだかまりは残るのでしょう。成功しても認めてくれないのかもしれません。それでも私は10年後には必ずあの時の私の決断は正しかったと言い切れるし、妻を必ず幸せにする自信があります。
それが言えないなら最初から行動すべきではありません。
人からは欲張りだといわれるかもしれませんが、私は本業でも副業(=複業)でも成功者と言われたいです。
そうすることで、私に関わることでより幸せになってくれる人を増やせると信じているからです。
おわりに
ということでかなり長くなってしまいましたが、私が伝えたいことや、何を考えて生きているかをぼんやりとでも感じることができたでしょうか?
これからもこのブログを通じて、あなたの人生において、何か気付きやきっかけになるような情報を発信できるように、私自身もさらに進化し続けながら精進していきます!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
丸山貴生